少しでも早く始めないと、手遅れなのか?
—英語を学ぶ意義と年齢の問題—
「2011年から公立小学校で5、6年生対象に英語の時間が始まります。全国ではそれにさきがけて、すでに英語の時間を設けている小学校や、低学年から教えている学校も少なくありません。これからのグローバルスタンダードな時代の競争についていくため、学校で英語が始まる前のヘッドスタートをきるためにも、少しでも早く英語を学習しはじめる必要があります・・・・」
こんな文章、よく見かけませんか?
私は個人的に、「競争」が嫌いです。自分が競争するのも、人の競争をあおるのも(ゲームや遊びの中でならいいのですが)もペケです。
英語を学ぶ意義、それは国際競争力をつけるためや競争に勝つため、ではありません。そういう人もいるとは思いますが、私は個人的にはそうではないと思っています。
英語(別の外国語でももちろんOK)を学ぶ意義は、ずばり「平和のため」です。外国語教育は平和教育の一つなのです。まさに広島にぴったりのテーマです。(余談ですが、私は主人の仕事の関係で、広島に移転することになったとき、うれしくて躍り上がりました。まだまだ不勉強で、とうてい広島を語れる私ではありませんが、私にとって広島は世界の中心「セカチュー」なのです、平和をテーマとした。)
外国語教育がなぜ平和教育なのか、それは、外国語の学習は、新たな世界を知るための扉となるからです。日本語だけを使って毎日を過ごし、日本語で世界についての知識を身につけたり文化を学んだりするのとは少し違う、柔軟な考え方や多面的なものの見方を自然に身につけることができます。たとえば、目の前にコップがあったとします。日本語だけしか知らない人にとっては、「コップはコップでしょ~」となることが多いですが、日本語以外の言語も持っている人ならば、「コップ」だけど「cup(英語の場合)でもある」、となります。コップが一つの呼び名に過ぎないことがすぐに分かるのです。さらに、なにかを飲むのに使うだけでなく、ときには花瓶にしたり、ゼリーをつくる器にしたり、虫を閉じ込めておくのに使うかもしれない、その他いろいろ、柔軟に見ることができやすくなるといいます。そして延長線上には、多様な価値観に対する寛容性を身につけ、他者や他文化に対して柔軟に対応できる態度の形成があるのです。これは平和を実現するための第一歩であり、まさに現代的な課題であると思います。
では外国語は少しでも小さいうちに始めないと、習得できないのでしょうか。
私の答えは「否」です。こんな言葉を聞いたことはないでしょうか。
「人間は誰もが言語を習得する才能がある」「勉強を始めるのに、遅すぎるということはない」
これらは事実だと思います。これまで行なわれてきたいろいろな学術的調査を総合して見ると、「小さいうちの外国語学習のほうが、大きくなってからの学習より効果が大きい」という証拠は出てきていません。大きくなってからでも、適切な学習方法により、外国語を身につけることができるのです。市販のさまざまな英語教材や指導法のなかには、「赤ちゃんのように学ぶ」というようなフレーズで宣伝していることがよくあるでしょう。赤ちゃんのように、日常生活を送るなかで、とりたてて特別なこともせず言語を身につけることができたらどんなにかよいでしょう。しかしこれは、赤ちゃんにこそ当てはまる方法で、大きな子どもや大人には当てはまりません。
当たり前のようですが、小さな子どもは「小さなこどものように学ぶ」、大きな子どもは「大きなこどものように学ぶ」、大人は「大人のように学ぶ」のです。小さな子どもは聞こえた音声を、丸ごと暗記することができる、ということはもちろんあります。これは大人には難しいことです。しかしイコール、小さな子どもの学習がすぐれている、ということではなく、音に対する感受性が高い幼少期には、その部分を活用した指導が効果的だということになります。
つまり、年齢に適した、楽しくやる気の出る指導や、学習の努力を続けられる環境こそが大事なのです。