左利きと第二言語習得

左利きと第二言語学習

私の長女は左利きです。あかちゃんのころから、おもちゃなどを自然と左手で持つことが多く、クレヨン、スプーンやお箸、はさみなど、新たな道具を使い始める時には、右手にも持たせてみましたが、いつのまにか左手に持って使うようになっていました。

利き手を決めるのは遺伝か環境か、それは全くわかりませんが、特に右手に持ち替えさせる努力はせず、そのままにしています。世の中は右手主流にできているので、右手に直したほうがいい、と考える人も多くいることでしょう。どちらがいいのかわかりませんが、私は二つの理由から、あえて左利きのままにさせています。

一つは、自分の身近にいた左利きの人たちが、ユニークな才能を発揮していた、ということがあります。利き手と才能、それが関係あるかどうかは全く不明ですが、右利きの人が左脳を使うことが多く、左利きの人が右脳を使うことが多いことを考えれば、利き手の違いによって、違った発想が出てくることもあるのではないかと思います。人と違った発想ができることは素敵でうらやましいことです。

二つ目は、世の中のいろいろなものが右利き用にできているため、左利きの人は、不便を強いられる機会が多い、ということです。たとえば、電車の自動改札は、右側に差し入れ口やや読み取り機があるので、左利きのひとは右手に切符やカードを持ち替えないと通りづらい、ということがあります。こうと書くと、左利きがマイナスのことのように聞こえますが、これも「ピンチはチャンス」。右利きの人は、左手に持ち替える機会は限られていますが、左利きの人は、両手を使う機会がずっと多くあります。これによって、否が応でも左右の脳を使う機会が、より多くあることでしょう。

私から見ると、左利きは一つの才能、せっかく左利きに生まれたのに、それを右に変えてしまうのは、もったいない、というわけです。もちろん右利きである私には、左利きの人が経験する不便さはわからないので、なんとも言えない部分もあるでしょう。しかし、右手に「直す」という言い方に反発していることもあるのです。なぜ悪いことではないのに、「矯正する」という言い方なのだろう、と。もちろん文化によっては、左手を不浄の手と位置付けていたりする場合、生きる上での不便さや不利の度合いにより、変えた方がいいこともあるでしょう。しかし少なくとも自分が今在る文化の中では、どうなのでしょう。むしろ、「直す」という言い方により、よくないもの、隠すべきもの、という無意識のメッセージを伝えることになり、自尊心の低下につながったり、才能の芽を摘んでしまったりすることになるのではないか、と思ってしまいます。

さて、タイトルにした、「左利きと第二言語学習」ですが、どう関係があるのかといえば、直接の関係はありません。ただ、第二言語学習でも左利きの人が体験するのと似たようなことが起きる、ということです。

英語が国際語の地位をゆるぎないものにするにつけ、英語のネイティブに生まれなかったこと、それ自体に損をしたように感じることがあります。事実、そういう部分はあるでしょう。しかし、私流にいうと、「マイナー言語のネイティブであることは、才能の一つ」!なのです。

日本語をマイナー言語というかどうか、また母語の能力を才能というかどうか、は別として、もし世界の主流言語のネイティブだったら、どうなるでしょう。言語の不便を感じることが少なく、当然ほかの言語を学ばなければ、とはあまり考えないでしょう。現に英語のネイティブ話者は、第二言語学習が大変に苦手な人が多い、ということがあります。学ばなくてもなんとかなってしまうから、学ぶ努力の手が鈍ってしまうのでしょう。カナダでは英語とフランス語の二つが公用語ですが、フランス語話者が英語を学ぶ方が、英語話者がフランス語を学ぶより、ずっと成功しているそうです。

不便を感じていることは、学ぶ機会が増え、できるようになるものが増える、ということです。これはチャンスです。