料金を格安にしているわけ
私の英語教室のレッスン料は、安い、と言われています。
家族やコンサルティングを生業にしている人、そして占い師にも、「とても安い」「安すぎるんじゃない?」「もっと高くしてもいいと思うよ」と言われ続けてきました。
でも格安のルールを曲げません。
なぜか?
高い授業料を設定している英語学校には、その金額に見合った、高い質(講師、教室の設備)をもっているところもあります。そうではないところもあります。
料金を安く設定していると、質が高くない?それなりの内容?自信がない?
と思われる方がいる、というのは知っています。
料金の高さは、「プレミアム感」ともつながっています。
だから、料金を高く設定して損をするより、低く設定して損をすることのほうが、実は多いかもしれません。
講師紹介のところに、「英語の習得に苦労した」、と書きました。
カナダの学校に行きたくて、トーフルという資格試験がクリアできず、寝ても覚めても勉強していた時期がありました。
そうしてギリギリ点数をクリアしてカナダに行くことができました。
自分がすごく努力したからでしょうか?
そういう部分もあるのかもしれませんが、それよりも、
諦めきれず勉強し続けることができたのは、「恵み」のようなものだと思うのです。(「勉強ができるようにならない」のところでは、努力できるのは「才能」の一つであると書きました)
そしてカナダに行くにあたり奨学金をもらうことができた、というのも、私のがんばりというよりは、むしろ「恵み」の一つです。
そんな風に、恵まれたことが重なって、いまの仕事をしている。
だから、社会に還元したい、という思いを持っているのです。
社会に還元するにはいろいろな方法があると思います。
高い授業料を設定して得た収入の中から、税金を多く払う、というのも一つの方法でしょう。
しかし私は、縁あって私の教室に来てくれる人を通じて、労働することで還元していこう。
と思ったのです。平均的な英語教室の授業料と、私の教室の授業料の差額、
それが私の労働=社会への還元分です。
もう一つは、料金が原因で英語の学習をあきらめる人が少しでもいないように、という思いです。英語ができない、そんなことで損をしてほしくないんです。だって、英語をしゃべれる人は何億人もいます。子どもから老人まで。できないわけがない。程度の差はもちろんあると思いますが、やれば誰でも、いろいろに使えるところまで必ずできるようになる、そう信じています。
話は変わりますが、別のところに、「宮沢賢治と私」というのを書きました。
賢治の生まれ・育ちは、恵まれたものでした。
それに甘んじることなく、農民の幸せについて考えていた賢治。
殺風景な田んぼの真ん中に、背の高いひまわりを植えたりしたそうです。農作業中に、農民が少しでも明るい気持ちになれるように。
周囲からは、そんなことして頭がおかしい、と言われたりしたそうですが、気にもせず。
尊敬する人物は宮沢賢治、そんな風に言ったことは一度もないのですが、賢治の生き方に、きっとあこがれているところがあるのでしょうね。
最後に、英語のレッスンは、ひとつひとつ、「一期一会」であると思っています。
生徒にとって、その時間は一回限りのもの。
だから、料金の高い低いによらず、私の中から自分のベストのものを出せるレッスンにしよう、そう決めて実行しているつもりです。